July 4, 2009
何でもない日に、人は恋に落ちる

J☆Blog おそれいりましたm(_ _)m

ひさしぶりにしびれたコピー

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編集技術の例を挙げるとすれば、十年ほど前から、随分変わってきました。バーチャルな仕事になってしまいました。昔は、編集台の上にフィルムをかけて、実際に手で回して編集をしていたのに、今ではすべてが速くバーチャルに、ボタンを押すだけで編集ができるようになってしまっています。たとえばナンバー50の映像のあとに、ナンバー100の映像を繋ぎたいとすると、すぐにその100の映像が見つかって、ナンバー50の映像に戻りたいとしても、すぐに50の映像が出てくる。このように、バーチャルなエレクトロニクスの仕事で、本当にすぐに編集できるようになってしまっています。そうすると、私には時間がなくなってしまった。時間が廃絶されてしまったような気がするのです。すぐに過去の中に入っていく。過去に向かっていく。そのため過去に遡っていく時間がもうなくなってしまっています。フィルムの場合は、早回しにしても、その過去の部分まで戻っていく時間があって、考える時間がありました。このように今、過去・現在・未来、すべてがなくなってしまっているような気がします。編集においては、過去・現在・未来がなくなってしまっています。人生にしても同じで、すべてのものがすぐ手に入れられることができる。私はビデオにしても、ひとつかふたつの操作を知っているだけで、その他の操作を知りません。果たして、将来、「プレイ」という操作すら必要なくなってしまったら、どうすればいいのか、考えてしまいます。

ジャン=リュック・ゴダール「インタビュー〈3〉」

なんか最近Tumblrやってると、ゴダールが時々脳裏をよぎる。

(via tscp) (via kml)
当時、フランスのクリス・マルケルと、若いケベックの映画作家たちと、ソニーに手紙を書きました。「あの新しいビデオの機械ともう一台を使って、ビデオで編集できるようになるといいと思うが」という手紙を書きました。ソニーの返事は、全然そういうために作ったものではないという否定的なものでした。その後、ソニーは編集ができるとても高いビデオの機械を出すようになり、私は高いお金を払って、それを買わなければなりませんでした(笑)。
ソニーでもパナソニックでもいいけれども、小さなカメラで何かを撮ってごらん。私たちが昔、16ミリでも高すぎてできなかったことが、今はできる。同時録音もほとんど録れなかった、今はそれができる。好きなように撮影ができる。最初は、あなたの一日を撮ってみなさい、このように言います。朝起きてから、夜寝るまで、そして夜も夢を見ている。その一日を撮りなさい、本当のあなたの一日を撮ってみなさい。警察に話すようなやり方ではいけない。朝起きて、歯を磨いて、コーヒーを飲んで、仕事にいって、友達と会って話して、それから寝た、これは本当のあなたの一日ではない。本当のあなたの一日を語るように試してみなさい、こういう風に言います。カメラを使って、映像と音を採って、本当の一日を果たして語ることができるのかどうか。採ってみたら、本当の一日は語れないということがわかる。自分にはできない、本当の一日がこのカメラで語れないとわかったら、ハリウッドに行きなさい。ハリウッドでは受け入れてもらえるだろう(笑)。しかし、もしも自分が本当の一日を撮れたと思うなら、友達やお母さん、あるいは身近な人に見せなさい。見てもらって、果たして映画館の入場料と同じ十ドルを、これに対して払うことを受け入れてくれるかどうか聞きなさい。おそらく、観客は、自分に本当に近い人であっても、あなたの本当の人生にはまったく興味がないことがわかるでしょう。そうすれば、本当の映画とは何かという問題提起をはじめることができるから、二本目では、少し成功する機会が出てくるかもしれない。こういう風に言います。
kml:


proto-jp:


bibidebabideboo:


-dont-forget-:


(via starehard)
yeah, i repost the same people over and over.  i’m not sorry.

kml:

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bibidebabideboo:

-dont-forget-:

(via starehard)

yeah, i repost the same people over and over. i’m not sorry.

隣の芝はいつだって青く見える。それはその芝を維持するコストを知らないからだ。
失敗した人が責任をとらないって言う社会と、失敗した人が、一回責任をとるんだけれども、再チャレンジできる社会ってのは、これは、本質的に異なる。